Takaaki MANO (Painter)

Biography

English | Japanese

眞野丘秋は滋賀県の高校の美術教師である父と、音楽家の母のもとに生まれ、幼い頃から芸術や哲学に囲まれた環境で育った。小学校に入学してからは熱心に勉学に励み、孔子の『論語』などの道徳的な書物を好んで読んだ。また勉学だけでなく、スポーツや運動にも力を入れ、自然をこよなく愛し、野山を駆け回る活発な少年だった。10歳の時に家族旅行で訪れたイタリア・フィレンツェの建築美術や、スペイン・マドリードの美術館で観たピカソの「ゲルニカ」は、幼い彼に強烈な印象を残した。成績優秀で地元の進学高校に入学したが、厳格な管理体制を持つ校風に馴染めず、睡眠障害を発症し、入学から1年半の間を、ほとんど眠って過ごした。このころ、将来は哲学者になることを志していたものの、大学受験に失敗し、進学することをやめた。高校卒業後、京都に移り住み、彼はストリート・ミュージシャンとしての活動を始め、様々なジャンルのミュージシャンやアーティスト達と交流した。しばらくして、19歳でタイ、ネパール、インドへ放浪の旅に出て、ネパールで神秘体験(クンダリーニの覚醒)を経験し、人間の生命は永遠であり、近い将来、地球の文明が大きくシフトすることなどを知った。その後、必然的に精神世界やスピリチュアル世界に目覚め、現在まで霊的探求が続いている。ネパールから帰国後、ストリート・ミュージシャンの活動を続けながら、身体障害者の介助や鉄工所などの様々な職種に就いたが、労働に生きがいが見つけられず、どれも長くは続かなかった。その後、25歳で京都芸術デザイン専門学校、京都造形芸術大学の総合デザインコース(併修制)に入学し、グラフィックデザインやシルクスクリーン、写真などの視覚表現を総合的に学ぶが、極度の心身衰弱により入学から2年目の冬に立ち上がれなくなった。その後、1年半の間、寝たきりの生活を送り、病院に掛かったところ「うつ病」と診断された。立ち上がることができるようになってからも、数年間、声が出ない状態が続いたため、この時期に音楽活動を断念した。この時、京都から滋賀へと帰省する。また、うつ病と同時にクンダリーニ症候群を併発したため、数年間、専門治療を受けた。立ち上がれるようになってからは、歩く練習や身体のリハビリを続けながら、身の周りの自然や家族、花や空など、彼の心を癒してくれるものを被写体にし、膨大な数の写真を撮り始めた。また、滋賀県社会福祉事業団(現:社会福祉法人グロー)のアートサポーターとして、精神・知的障害者の創作活動をサポートする仕事を始めた。滋賀県は全国でも有数のアール・ブリュット推進地域で、近くの街にアール・ブリュットの専門博物館(ボーダレス・アートミュージアムNO­MA があったことにより、アール・ブリュットの世界観から、生き方や作品制作に多大な影響を受けた。‘05年にMMS モダン・ミステリースクール)のアデプトプログラムを受講し、’06年にはリハビリ中に撮り溜めた膨大な写真群をもとに写真集を出版し、ボーダレス・アートミュージアムNO­MAにて、初めて企画グループ展に参加した。そして'07年には、あるスピリチュアル・ヒーラーの講演会や瞑想会を近畿圏にて9回主催し、初の絵画個展を開催した。以後、毎年絵画個展を開催し、国内外のグループ展やアートフェア、国際交流展に多数出展している。現在、アクリル抽象画をメインに制作し、小説やエッセイの執筆、写真集の出版など、多岐に渡る活動を展開している。前述した内容のように、眞野丘秋の半生は、現代社会の中においての生き辛さを強く感じ、そのことから生じる病気と闘い、病を癒すために自己を表現するという不断のプロセスであった。そしてそのプロセス(人生)は、中国の道教思想へと昇華され、宇宙そのものが愛であり、道(タオ)であるという結論に行き着く。そして彼の作品は、作為や高等テクニックに依拠することなく、ただ自然なプロセスに任せて、生理的な欲求や衝動に従って、偶発的(必然的)に、オートマティックに制作するというスタイルを持つようになった。彼は今日もキャンバスに向かい、彼の作品を通して、まだ地球上に存在しない未知のエネルギーを、形態と色彩によって地球に下ろし、定着させ、愛と光と癒しを生み出している。