JCAT Interview 焼鳥屋「鳥心」料理長 河野睦さん

初めまして、James Nogamiと申します。縁あって記事を書かせていただくことになりました。
日々活動するアーティストの方々。皆それぞれ異なる価値観を持って表現をしています。それらをインタビューで明らかにしていきたいと思います。
他人の考えを知ることで新たな発見、発想を得られるといいですね。

今回話を伺ったのは、ミッドタウンにある焼鳥屋「鳥心」の料理長であり、ブレイクダンサーでもある河野睦さん。「鳥心」はミシュラン一つ星を六年連続で獲得、ニューヨークタイムズ紙で三ツ星を獲得し、板前としても一流です。


僕は以前から河野さんの放つオーラに惹かれていました。この機会に彼の内側を覗いてみたいと思いオファーしたところ、快く引き受けてくださいました。
二足の草鞋を履いている河野さんの生き方、そのパワフルさの秘訣を解き明かしていきたいと思います。
それでは、どうぞ。

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まず初めに、ダンサーとしてどのような活動をしてきましたか?

ダンスを始めたのは中一の時。最初は小さい街で地元の先輩に教わりながら、ほぼ毎日公園とかで段ボール引いてやってた。ダンススタジオにはいきたくない、不良ダンサーみたいな(笑)
高校生くらいになると、公園での練習以外で、クラブとかパーティーで仲間たちとダンスショーをすることもあって、そういうのがきっかけでいろんなジャンルの人と出会いがありました。
色んな町のダンサーとダンスバトルをしてましたね。

審査員がいて?

いないです。ストリートで、タイマンとかガチとかいう。ほんとにもう喧嘩ギリギリの。あわよくば喧嘩になるような、知らない人が見たらほぼ喧嘩みたいな(笑)
ショーやダンスコンテストの活動もしてたんですけど、バトルっていう格闘技的精神を持ちながらダンスを覚えていって。街のトップとトップが戦ったり(笑)

喧嘩魂みたいな(笑)

仲間がやられると、倒しに行く(笑)
そんで、ダンスバトルがメインになってきて。埼玉から東京に行って、そこでバトルを繰り返して。

何歳くらいの時ですか?

17,8くらいの時。田舎でじわじわやってたのが東京に出て花開くというか、皆が自分の踊りをリスペクトしてくれるってことを覚えた。昔はそれがなかったから、「どうだどうだどうだ」ってやってたんだけど。

喧嘩だけじゃなくなってきた?

そうですね。人間関係とかもそこで覚えて。招待されて全国を回れるようになったんですよ。ジャッジとして来てくれ、出場してくれと。仕事としてやるようになって、「おいおい、俺はどうなっていくんだ!?」みたいな(笑)
ダンススタジオで教えてくれ、ウチのチームに入ってくれとかいろいろオファーがあった。これもまだ18くらいの時かな。でも地元のチームが好きだったんで。自分の仲間を絶対日本一にするっていうこだわりがあった。
で、18,19とそういう風にやってるうちに日本のトップ10に入るようになっていって、21歳の時にSIVAっていう自分のチームがB-BOY PARKっていう大会で日本一になれたんですよ。

すごい!

調子がいいときに、今所属しているNYのロック・ステディ・クルーっていう、ダンスを始めたきっかけのチームが日本にゲストで来てて、スカウトがあったんですね。2000年くらいかな、まだ18歳。
でもなかなかいきなりプロの世界は難しいと。自分のチームを捨ててそこに行くなんて、ぶっ飛ばされちまうよって(笑)
B-BOY PARKでも優勝してなかったし、何も結果が残ってなかったんで、まだ早いと。周りには絶対優勝するって宣言してたから、けじめをつけないといけないと思ってた。
で、運よく優勝できて。2002年、次にどうしようって時に、改めて自分から頼みに行った。
それからロックステディクルーで活動を始めたんだよね。講師として教えたり、スタジオの先生としてショーを作ったりとか。あ、もちろんこのストーリーのサイドにはずっと板前の話があるんだけどね。

あ、同時にやりながらってことですか!?

そうそうそう(笑)
スタジオで働かせてもらいながらNYに行く時期を待ってた。で、2006年にこっち来てからは、バトルにでたり、ジャッジをしたり、教える、ミュージックビデオを作るとか。そういうヒップホップのすべての要素をずっとやってきた。

NYに来てからは、布教というか、サポートする側になっていったということですね。

うん。例えば映像作品。ダンスの映像にメッセージをつける。震災の時とか。
あとは子供たちに向けて、『どうやったら海外に行ける』とか、『どうやったら大きなステージに立てる』とか、『どうやったら夢を見て活動できるんだ』とか。そういうのをこっちのアーティストとコラボレーションして作ってきたのがNY。
やっぱりここでやることがリアルなんですよ。HIPHOPの聖地なので。既にあるものを合わせるのではなく、いろんな出会いからメイドインNYで作ろうと。
そうして、ダンスだけではなくいろんな面で一つになったのかなって言うのが今。

そうですね、アーティストって一つの顔だけじゃないですよね。

板前の修業はどのようにしていましたか?

板前の方はシンプルですね。親が板前で、実家が料理屋やってまして。元々そこを継ぐということで中学生ごろから料理を始めました。

大きな店ですか?

結構小さいです。20,30席くらいの。母と、父と、ばあちゃん、プラス俺と姉ちゃんが手伝ったり。
その時はやりたいというよりは、やらなきゃいけない。家と店が一体だから忙しいとピリピリするし、のんびりしてるわけにはいかなかった。タダ飯は食えねえと。
ダンスをやってたからなんだろうけど、やるからにはプロ、一流、究極にならないといけないという気持ちが強かったんで、自分で専門学校に行って、卒業後に家出てホテルの和食屋で2年サービスの勉強をして。そのあとは「たん熊 鈴よし」っていう京料理屋で割烹という、カウンターでの仕事を5年やって。
それでキャリアを積んでいくうちに、同時進行のダンスの方ではスカウトされてたからNYに行きたいなと。
手段を考えてるときにNYにオープンする「鳥心」の募集を見て、「おっしゃこれでいける!」「これで行くしかない!」って応募の段階でめっちゃ興奮して(笑)
興奮しすぎて切手貼り忘れてレジュメを送ったんですよ(笑)

戻ってきちゃったんですか(笑)

戻ってくるも何もポストに入れた瞬間に「あ、忘れた!!」みたいな(笑)
で、東京で面接があって。NY行く前に研修で焼き鳥のことを勉強させてもらって、2006年から今まで「鳥心」でやってます。

最初から店長?

いや、違います。2年目からかな。元々の料理長は子供ができて帰っちゃったんだよね。それで「こんなただの修行上がりの坊主頭が、いきなり、えっ!?」みたいな(笑)
26歳の時ですね。

26で店長ってだいぶ若い印象が。

そうですね。経験もなく、自分でも納得のいくレベルじゃなかった。英語もままならないままマネジメントもして。オーナーや鳥心を築いてきた仲間、そしてお客様のサポートで乗り越えられたけど、「帰りたいな」ってのはその時期が一番多かった。

あとで聞こうと思っていた話が出てきましたね。アーティストって心に闇を抱えてる人多いと思うんですけど、河野さんが辛かったことは?

辛くて自分を見失ったことはないっす。志があったんで。
でも、一番自分を苦しめたのは「プライド」ですね

to be continued.......

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日本人現代アーティストチーム
"Japanese Contemporary Artists Team in New York"
略して「JCAT」




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